今のこの「私」は本当の「私」なのだろうか…
私は今までの 55 年にわたる人生で、「あの時」確かに死んだ筈だと思うような体験が 5 度ばかりあります。不思議な体験なのですが、40 年以上も前のことも今でも鮮明に思い出せるのです。上で紹介した交通事故で亡くなった彼女も、ひょっとしたら今頃「別の世界」でバイクを運転している友だちと「今の乗用車のおばさん、あぶない運転するよね。チョーあたま来ちゃうね!」…などと笑顔で話しているのかもしれません。
確かに、私の「あの時」の事故は死んでておかしくない状態でした。それが、不思議にもカスリ傷ひとつなく過ぎてしまって今の私がここに存在しています。…今思うと、私の場合はひょっとするとこの彼女とは逆に「あちら側の世界」で、両親やお兄ちゃんお姉ちゃんが「のぼるさぁぁぁん」と叫び、号泣しながら葬式を出してくれているのではないだろうか…ふと、そんな不思議なこと?
を夢想してしまうのです。
今回の病気で入院中、どの時期だったか (たぶん、救急車で運ばれてカテーテルでの検査、手術が終わってから心疾患集中治療室
CCU で絶対安静中の 2 日間の間だろうと思いますが) 夢か幻か、臨死体験とまではいえないまでも、自分の精神の中、心の奥深くで何かを感じた、何かが動いた気配があったことをよく覚えています。そして、今まではもし自分に死が訪れるときには、何ごともなく何を感じることもなく旅立てるものと思っていたのですが、どうもそうではなく、「その時」には、死に逝く自分自身も何かのドラマを体験できるのかもしれないと思うようになってきました。
(編集中)
第一話
元々それほど敏捷ではなかったのですが、それでも鉄棒の逆上がり、後ろ回りくらいは早くからできていましたし、跳び箱の上で逆立ちをしてスッと降り立つとかそのまま砂場に前転して降りるというような体育の時間の運動くらいは人並みにできる、まあごく普通の小学生だったろうと思います。遺伝体質なのか体が硬いこと、あまり球技がうまくなくてコンプレックスがあるのであまり進んでやるほうではなかったですね。例外は走ることで、特に長い距離を走ったりジョギングをすることは好きで、中学、高校と陸上部で駅伝メンバーとして頑張っていました。
小学校 4 年生の時、確か昼食後の休憩時間だったと思います。校庭にある滑り台のてっぺんからから何を間違ったのか足を滑らせてまっさかさまに地上に落ちたのです。頭からの墜落ですから大変な事故になっていた筈なのですが、一瞬後気づいた時にはまるでかっこよくジャンプして降り立ったように地上に立っていました。回りには友人が居て一部始終を見ていたらしいのですが、「のぼるちゃんは逆さまに落ちる途中で回転してちゃんと降りたよ。滑り台のどこかを手で持っていたんじゃない?」と言うのです。少なくとも私自身にはわずか
2m ほどの高さから落ちる途中にクルッと身を翻すほどの敏捷性もありませんし、そういう動作をした記憶はまったくないのです。誰か?
が瞬間的に手を差し伸べて私を助けてくれたのか、それともこうして当時のことを書いているこちらの世界の私のほうがニセモノなのかも…
第二話
私は小学校 3 年生から中学校卒業までの 6 年間、新聞配達をしていました。たまたま志望校であった電波高校の近くに配達エリアがありました。山の上に高校があるのですが、その近辺の住宅までの道は結構急な上り下りの坂道が多いのです。ある日自転車のブレーキの調子が悪いのはわかっていたのですが、急いで目的の家までの急な下り坂道を降りて行っていました。読売新聞は配達エリアの広さの割には購読者が多いので運ぶ新聞の量が多いのです。ハンドルのところにおふくろが作ってくれた新聞を入れる袋をぶら下げていたのですが、この袋の端がハンドルのところに食い込んでしまい正常にハンドル操作ができなくなってしまいました。おまけにその時は何を思ったのか片手運転をしていたのです。坂のもう下りきる直前のくぼみにハンドルをとられて真っ逆さまに転げ落ちました。野球のヘッドスライディングそのものですが、手が出ていないのでいかんともしがたい危険な状況です。一瞬気を失いましたが気づいてみれば、顔面に大きな擦り傷を作りましたが生きているようです。そして頭の頂点からわずか10センチほど先に自動車の進入防止のためでしょうかコンクリートの棒が立っていました。肝を冷やすとはこのことでしょう…あの時、私は確かに死んだのではないかと思うのです。
第三話 ( 2016 年 1 月 9 日追記。しばらくぶり、実に約 8 年ぶりのホームページ更新です! )
私は小学 6 年生からアマチュア無線 ( コールサインは JA4BYM 後に JA9CLX JA3WAE も) に魅せられて、家にある古いラジオや蓄音機を分解しては再度組み立てるという、今から見るとラジオ少年、マニアックな趣味を持っていました。その趣味が高じて無線通信、技術の世界に入ることになったのですが、広島県福山電波工業高校電気通信科に進学してから一層ジャンク品を集めて修理したり短波の送受信機を作ったりして楽しんでいました。この高校 1 年の頃、蓄音機を分解して取り出したオイルコンデンサーという一辺が 10 センチほどもあろうかという大きな金属缶のような部品を新しい送信機に取り付けてはんだ付けも終わり、作業机に移動させようと持ち上げた時です。このコンデンサーの電極部分に指が触って「バチン!」「ビクン!」と大きなショックで送信機ごと放り投げて自分自身は畳の上にひっくり返って気を失いました。どの程度死んで?いたのかわかりませんが、気づいた時には目の前で星が飛んでいたのを思い出します。確かにあの時も私は一応死んだのではないかと思うのです。おそらく 3,000 ボルトもはなかったと思いますが当時の送信用真空管は確か P220 という高出力用のものでしたから 2,000 ボルトはゆうにあったろうと想像します。今思い出してもぞっとします。
第四話
三途の川で亡き父が私を呼ぶ。バスを待つ死への候補者? の人たち。(編集中…未完?)
第五話 ( 2007 年 11 月 24 日追記。しばらくぶり、本当に 5 年ぶりのホームページ更新です! )
昭和 42 年に福井県坂井郡春江町にあります福井空港に転勤になりました。若気の至りと言いますか、毎日が楽しくて、グライダーの大学生とか空港ビルの同じ年代のみんなと毎日何かの遊びをしているというような状況でした。まあ、20
歳の青春真っ盛りというところでしょう。いまでこそ空港に居ても飛行機に乗りたいとは思いませんが…これは今からざっと 40 年前のおハナシ…
ある日、セスナ機に乗る機会がありまして、喜び勇んでカメラ(もう大阪で車の中から盗まれてしまいましたが、当時とても大事にしていたペンタックスの
SA という機種でした)を持って乗り込みました。快適に飛行していたのですが、いつの間にか知り合いのパイロットが位置感覚を失ってしまって、山の頂きと頂きの間、つまり峠のようなところで袋小路になっているところに入り込んでしまいました。高度も相当おろしていたようで、山肌の木々の枝の一本一本が見えるくらいでした。「のぼるぅ、上昇反転するからしっかり持っておけよ!」といきなり叫ばれて、気付いた時にはもう山肌すれすれ、セスナ機のギアが木の枝に当たるのではないかと思うくらいのところを通過し、一瞬後には体が真っ逆さまのようになっていました。不思議と気分は悪くはなりませんでしたが、おおきな
G がかかったのでしょう。カメラが持ち上げられなかったのが鮮烈な印象として覚えています。この時の私、本当は山に激突して死んでいたのではないでしょうか。
実は、この福井時代のパイロット等友人の多くがその後各地の航空事故でなくなられています。鎮目氏、大石氏、岩崎氏、カメラマンの大野氏、鈴木氏、、、と。本当に私は「こちら」で生きているのでしょうか。
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